大正9年(1920)年創建当初の門構え

 

山科家について

山科家は藤原北家の流れで、平安時代末期〜鎌倉時代初期の公卿藤原実教(1150〜1227)を初代として始まりました。

後白河法皇より山科新御所とその周辺を所領として賜り、以後代々伝承し、家名の由来となります。

 

山科家の人々は宮中で大納言・中納言・参議等の要職についた他、南北朝期以降は内蔵頭・御厨子所別当を世襲し朝廷財政を運営します。

また、公家の家職として、装束の調進と着装をする衣紋道山科流並びに雅楽の笙を伝えるなど、有識故実をもって歴代天皇の側近として仕えました。

山科家は歴代当主による日記が多く伝存していることで著名であり、中でも13代言継(1507〜1579)の日記「言継卿記」は戦国時代研究の重要史料として評価されています。

衣紋道とは

[衣紋道とは]

衣紋道とは公家や武家の装束の着装法について、古くから伝えられてきた技術や考え方のことです。

 

[衣紋道の起源]

 宇多天皇の寛平六(894)年、舒明天皇以来、264年間続いた遣唐使が廃止されたことを契機として、我が国の文物、諸制度は従来の唐風の模倣から脱皮して、日本独自の生活習慣や国民性に適合したものに改められていきました。

そのような中で服飾の面においても、これと軌を一にして国風化が進められ、従来の唐風の柔装束(なえしょうぞく)から強装束(こわしょうぞく)へ変化し、鳥羽天皇の代(嘉承二(1107)年〜保安四(1123)年)頃には、男性の束帯、女性の唐衣や裳からなるいわゆる十二単の現存のスタイルに近いものがつくられるようになります。

 このようなサイズの大きい、ゴワゴワした強装束を美しく着装するには、他人の手を借りる必要があり、ここに専門的な着装技術者(衣紋者)が登場することとなりました。

 

[衣紋道の創始者とその後継者]

 衣紋道の創始者は、後三条天皇の皇孫にあたられる従一位左大臣 源 有仁公(康和五(1103)年〜久安三(1147)年とされています。

公の死去後、衣紋道は藤原北家の流れである徳大寺家、大炊御門家に伝えられ、さらに治承四(1180)年頃に徳大寺家の衣紋道は山科家へ、また正安二(1300)頃に大炊御門家のそれは高倉家に伝えられました。

 以後両家は公家の家職としてその道を継承し、今日に至っています。

家系図

公季

​実成

​公成

​実季

​公実

​茂子 (後三条天皇女御 / 白河天皇生母)

​苡子 (堀河天皇女御 / 鳥羽天皇生母)

​実隆 (閑院、絶家)

​実行 (三条家祖)

通季 (西園寺家祖)

​公通

実能 (徳大寺家祖)

季成 (加賀、絶家)

璋子 (鳥羽天皇中宮 / 崇徳・後白河天皇生母 / 待賢門院)

娘 (衣紋道の祖・源有仁室)

実能 (徳大寺家祖)

​公能

​実定(百人一首選、後徳大寺左大臣)

公親

実教 (山科家初代)

忻子(後白河天皇中宮)

公保 (徳大寺家、絶家)

多子(近衛天皇・二条天皇皇后)

育子 (二条天皇皇后 / 六条天皇生母)

魚名

8代

顕季

​長実

得子 (鳥羽天皇后 / 近衛天皇生母 / 美福門院)

家保

家成

隆季 (四条家祖)

顕輔 (六条ほか、絶家)

家明

成親 (大宮、絶家)

実教 (山科家祖、徳大寺家へ)

娘(徳大寺公親室)

経子 (平清盛嫡男・平重盛室)

​公頼

公長 (山科、絶家)

​教房

​6代

​顕言

言国

言綱

言経

言緒

言総

​宗明

言行

持言

堯言

頼言

敬言

言知

言成

言縄 (伯爵)

言泰

言和 (当代)

​言親 (若宗家)

※家系図参考文献 『公家事典』橋本政宜編 / 吉川弘文館

〒606-8333 京都市左京区岡崎法勝寺町77

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